旅は天命!?松尾芭蕉が45歳で下した「奥の細道」への決断力がすごい!

俳人である松尾芭蕉が、「奥の細道」という俳諧紀行文を書いたことは有名です。その「奥の細道」が刊行されたのは実は松尾芭蕉の死後なのですが、50歳で亡くなる直前まで、執筆に時間をかけていたそうです。
旅をこよなく愛していた松尾芭蕉が奥の細道への旅を決断したのは、その数年前の45歳の時でした。今回は、そんな松尾芭蕉が「奥の細道」への旅を決断した背景とともに、どのように晩年を過ごしていたのかについてご紹介していきます。

奥の細道への旅を決断した背景は?

伊賀に生まれた松尾芭蕉は、20歳の時に詠んだ俳句が入賞し、28歳のころにはすでに伊賀で若手の代表格としての地位を築いていたそう。その後江戸へ出て、俳人になり修行を積むようになりますが、そのころに流行っていた俳句の傾向は、滑稽の機知や華やかさを競うものばかりで、自然の美しさなどを表した俳句を好んだ芭蕉は、この状況に失望し、江戸を後にしたそうです。
その後、40歳のころに母親の訃報を聞き、墓参りを旅の目的にし、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間めぐりながら俳句を詠みました。この時にできたのが、「野ざらし紀行」と呼ばれる紀行文です。この旅をきっかけに、旅の面白さに気がついた松尾芭蕉は、やがて、自然と向き合い魂を晒すような本当の旅への憧れを強めていくことになります。
そして45歳になったとき、全く知人のいない東北地方への長期旅行を実行することに決めたのです。全行程約2400km、7ヶ月間という大旅行は多くの困難が予想されていましたが、「たとえ旅路の途中で命を落としてしまっても、それは天命だと思い全く後悔はしない」と覚悟を決めて臨んだそうです。

晩年はどのように過ごしていた?

奥の細道の旅の途中では、芭蕉の中に「不易流行」という俳諧論が生まれました。目標とするべき理想の句は、時代とともに変化する流行を含んでいますが、その中には永遠性を持つ詩心が備わっているというものです。
48歳で江戸へ戻った芭蕉を待ち受けていたのは、芭蕉の力を借りたいという毎日押し寄せてくる大勢の客人たちだったそうです。過密なスケジュールに疲れ切ってしまった芭蕉は、「来客謝絶」という張り紙をし、一ヶ月の間誰とも交流しなかったというエピソードもあります。
その後、1694年には、ついに俳諧紀行文「奥の細道」が完成します。この作品は、原稿用紙50枚程度と、決して多くない文量だそうですが、芭蕉は、練りに練って、約3年がかりで原稿をまとめ、その後2年かけて清書を行ったそうです。
松尾芭蕉が、生涯で詠んだとされる俳句は900句以上で、紀行文の中で感じられる芭蕉の感性に多くの俳人たちが虜になり、いつしか「俳聖」と呼ばれるようになったそうです。

いかがでしたか?松尾芭蕉は、その生涯のほとんどを俳句にかけ、自分の好む俳句を極めるために危険を顧みず困難な旅へと挑戦を続けていたそうです。奥の細道の旅を始めたのは、45歳のときだったそうですが、その歳から7ヶ月間も旅を続けるというのは、中途半端な気持ちではなかなかできませんよね。
しかし、強い覚悟を持って旅に出たからこそ旅の途中では、俳句に対する「悟り」も生まれましたし、何よりその後作成した紀行文はとても素晴らしいものになったのですよね。松尾芭蕉が「俳聖」と呼ばれるまでの感性を身につけることができたのも、強い覚悟で臨んだ厳しい旅があったからに違いありません。

参考:

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