74歳で富獄百景を完成させた葛飾北斎 還暦以降勢いを増した創作意欲

あらゆる角度からの富士山が描かれた富獄百景を完成させた葛飾北斎。幼い頃から絵を描くことが大好きだった葛飾北斎は、晩年になるにつれて絵に対する執着心が強くなり、さまざまなジャンルに挑戦したり、画号を変えたりして自分の限界に挑戦し続けたというエピソードがあります。

今回は、還暦後も変わらずパワフルに絵を描き続け現役を貫いた葛飾北斎の生涯に触れつつ、晩年にどのように活躍していたのかをご紹介していきたいと思います。

世界一有名な画家 葛飾北斎はどんな人物だった?

世界的にも有名な江戸時代の浮世絵画家である葛飾北斎は、幼い頃から手先が器用で、18歳のころに勝川春章に入門しました。しかし、勝川の元で修行していた葛飾北斎は、浮世絵を描くだけでは飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画などを学んでいたそう。そのことが発覚し、「他派の絵を真似るうつけ者」と破門されたという出来事もあったそうです。

生活は困窮していたそうですが、絵を描くことだけはやめないと決め、朝の暗いうちから夜更けまで絵を描き続けていたといいます。

38歳のころ、オランダの風景版画に感銘を受け、風景そのものの味わいを見出すようになりました。しかし、相変わらず貧乏生活が続いており、内職として役者絵や美人画、武者絵、相撲画までジャンルを問わずなんでも描き続けました。

54歳になると、民衆の様々な表情や動物、植物などのスケッチを収めた「北斎漫画」を発表し、民衆から「面白い」と評価され一躍人気になりました。

さまざまなジャンルに挑戦し続けた葛飾北斎は、長寿だったこともあり、引っ越した回数はなんと93回。1日に3回も引越しをしたという、現代では考えられないようなエピソードも持っています。さらに、転居だけでなく画号の変更も30回以上行いました。その理油は、幅広いジャンルに挑戦する過程で、本当の実力を民衆から評価してもらうためであり、それぞれであえて誰にも知られていない名前を使用したのだとか。

好奇心が旺盛でなんでも挑戦してみたい葛飾北斎には、興味深いエピソードがいくつもありますが、なかでも驚きを隠せないのは、11代将軍家斉の前で鶏の足の裏に朱肉をつけて紙上を走らせ「紅葉なり」と発言したというエピソードです。将軍の御前にも関わらず、このようなユニークな発想ができる葛飾北斎は、肝がすわった人物でもあったのでしょう。

絵を極め続けた北斎の晩年は?

さて、気になる葛飾北斎の晩年はどのようなものだったのでしょうか。

晩年の葛飾北斎の興味は富士山にあったようで、50代前半で初めて旅に出た際に各地から眺めた富士山に感動し、それ以降何度も構図を練り、あらゆる角度から富士山を描き続けました。作中には、富士山の他にも民衆の生活の様子が描かれ、富士と自分たちを描いてくれる葛飾北斎を、江戸の人々は「北斎といえば富士、富士といえば北斎」などと賞賛したそうです。

74歳になった時、葛飾北斎は有名な「富獄百景」を完成させました。その頃に残した有名な言葉には「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると70歳までに描いたものにはろくな絵はない。73歳になってどうやら鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかがわかってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめていただきたいものである」というものがあります。この言葉からも、晩年になっても葛飾北斎の創作意欲が枯れることなく、生涯現役で居続けようとする意志の強さが感じられますよね。

いかがでしたか? 晩年以降、より強い創作意欲を持ち、さまざまなことに挑戦し続けてきた葛飾北斎は非常にパワフルな人物ですよね。生涯50年と言われていた時代に、110歳になればどのようなことができるのかを想像していたことにも、葛飾北斎の諦めない姿勢が伺われます。

参考:

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