忘れられない食事:安部直

 落語『饅頭怖い』は、大好きな饅頭を嫌いだといい、仲間を欺く滑稽噺である。私には、嫌いなものを大好きと言ってしまったために起きた人情噺がある。三十二歳の時に五回目の見合いをした。年齢からして最後のチャンスに思われた。多少の我慢をしても成就させたかった。
 場所は、都内のNホテルだった。仲人の紹介が終わり、二人だけになると、話題もなくなり、次のきっかけが欲しかった。そんな時「食べ物は、何が、お好きなのですか?」彼女から聞かれた。何がと、急に言われても、困ってしまう。いろいろな好物がある。頭に思い浮かんだのは、今朝、見てきた新聞の家庭欄だった。茎から葉まで栄養満点の「セロリ」が、今後の家庭料理に欠かせなくなるだろうと載っていた。これから二人で幸せな家庭を築くには、毎日の料理が大切だ。どうやら彼女は、料理が得意らしい。ここは彼女の気持ちを掴むチャンスである。「セロリが大好きです」とっさに口からでてしまった。じつは、あの独特のクセがあり、薬草の香りがするセロリだけは、この世に食べ物がなくなっても、食べたくない野菜だった。「よかったわ、わたしも大好きです。こんど、セロリ料理を作りますから食べにきてください」「よろこんで、お伺いしまーす」彼女の誘いは、結婚を承諾したように思えた。嬉しくなり返事もうわずった。セロリの件は、結婚したから正直に話せばわかってくれるだろう。
 数日後、彼女のアパートに招かれた。すでに食卓の上は「牛肉とセロリの混ぜご飯」に始まり、「豚肉との辛み炒め」「きんぴら」など“セロリづくし”が並んでいた。この種の料理は、火を通してあるから臭味が弱い。参ったのは、セロリのスティックだった。しかたなく口に運んだ。とたんに「うっ……」と唸った。薬草の味が強すぎる。我慢するのに酒の力を借りた。ところが、借りた力が効きすぎてしまったようだ。その晩、泊まることになった。私も彼女も、この夜の料理が「忘れられない食事」になったことだけは確かである。
 その後、結婚四十年、今では『セロリが怖い』の滑稽噺に変わってしまった。

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