可憐な弁当へのレクイエム:渡辺廣之

 定年を迎え、一人旅をする機会が増えた。旅の駅で、ご当地名物の弁当を買い求めるのが楽しみだ。しかし、彩り豊かな弁当に出会うたびに、中学生時代のあるほろ苦い出来事が思い出される。
遠足の目的地に到着し、昼食休憩の時間が来た。すると、クラスの悪友どもが興味深く私の弁当箱を覗き込む。ソレッと蓋を開ける私。一瞬にして頬が紅潮し、頭が真っ白になる。海苔入りの卵焼き、牛肉巻き、唐揚げ、キウイ、レタス、ミニトマト、新幹線の窓をあしらった小粒のおにぎり……。お花畑のような可憐な彩りの弁当は、うっすらと髭の生えた中学三年の私には、いかにも不似合いだった。少しの沈黙の後、「妹の弁当と間違えたようだ」と咄嗟に嘘をつき、弁当箱の蓋を閉じてしまった。そして、その勢いで、「こんな弁当、食べられるかよ」と、ナップサックの中に仕舞ってしまったのだ。では、私はなぜ、可憐な弁当に戸惑い、顔を赤らめてしまったのか。これには伏線があった。
 遠足が近づいたある日の放課後、話題が夕食のメニューに及んだ。「今夜はハンバーグだ」「うちはカレーだ」と話が弾む。仕方なく、「我が家は毎晩、刺身だ」と答えた私を見て、「毎晩、刺身!」と驚く二人。しかし、嘘ではない。魚屋を営む我が家では、夕食の卓に決まって売れ残りの刺身が並ぶ。色褪せた鮪やハマチ、鮮度を失った鯛やイカ。その刺身に、焼き魚や煮付け魚を添える魚フルコースの日さえある。つまり、私の刺身発言には、ハンバーグやカレーへの強い羨望がこもっていたのだ。
 ところが、私の発言には尾鰭が付き、「あいつは、遠足の弁当箱に刺身を詰めてくるらしい」という妙な噂が流れ始めたのだ。そんな弁当などあるものか。面白おかしく噂されることに、憤慨する私。そこに、思いがけない救世主が現れた。「遠足のお弁当、私が作ってあげようか」と、同じクラスの女子生徒が小声で囁きかけてくれたのだ。
遠足の朝、彼女から弁当を受け取る。昼食時が待ち遠しい。「見てみろ。刺身なんて入っていないだろ!」と、噂を流した悪友どもを見返してやるぞ。単純な私は、それしか頭になかったのだ。だから、思いがけない可憐な弁当の出現に、慌てふためいたのだ。
 私が弁当箱の蓋を開けるのを、彼女はきっと遠くから眺めていたに違いない。そして、予想もしなかった展開に、辛く悲しい思いをしたに違いない。しまったと思った。しかし、もう取り返しがつかない。彼女の真心を込めた弁当を、私は否定してしまったのだ。
遠足から帰った我が家で、私はもう一度、弁当箱の蓋を開けた。時機を逸した食材は、少しばかり悲しげな味がした。
 あれから五十年。私の年齢はもう六十代半ばに達した。物忘れも激しくなったように思う。しかし、あの日の出来事は、今も鮮明に覚えている。

 

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